ひさしぶりですが、今回は満願寺跡です。
満願寺跡
満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南でみ蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。
毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると天平十二年(七四〇)に行基菩薩が当地にこられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木造を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。
大永三年(一五二三)元就の本家相続が決定し郡山城に入城するにあたってこの満願寺法師栄秀の説により入城の日(八月十日申酉の刻)が決められたことや、永禄十年(一五六七)には越前の幸若大夫が満願寺に滞在し、幸若舞を舞ったこと、同十一年(一五六八)には、観世大夫宗節一座の能狂言が行われたこと、さらに、元亀三年(一五七二)には、法華経読誦千部会が行われたことなど記録にある。
この寺は毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに、萩城内に写っていたが現在は防府市にある。
平成三年三月 吉田町教育委員会
東西に蓮池跡があります。
わかりずらいですが、石で囲まれたとこがそうです。
東側蓮池跡
西側蓮池跡
・位置関係はこちら(PDF)をご参照ください。(⑦満願寺跡)
(つづく)
この記事へのコメントはありません。