さて、萩旧松本村地区の最後は、松陰神社です。 過去4回、はるばる東京から萩に訪れていますが、ここは必ずきます。 過去の写真を交えながらご紹介します。
松下村塾の跡が残されています。 ここへ高杉新作、伊藤博文などそうそうたる志士たちは通ったのでしょうか。
伊豆下田での密航の罪で捕まり野山獄へと送られますが、釈放後父親の杉百合之助に預けられ幽閉生活となります。その杉家の旧宅の門と、幽閉された幽閉室の建物が松陰神社内にのこされています。
吉田松陰幽囚の旧宅
この旧宅は、安政2年(1855)から数年の間、吉田松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が幽囚室である。 松蔭は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。そして、近親者や近隣の子弟だちに孟子や武教全書を講じた。
萩市教育委員会
こちらは、松本楼という七代藩主毛利重就が三田尻(防府市)の別邸内にたてた茶室であり、昭和34年に松陰神社内に移築されたものです。
花月楼
茶室「花月楼」は7代藩主毛利重就が、離宮mの流れを汲む表千家の家元、第7代如心斎の門人、江戸千家の元祖川上不白の献上した花月楼の設計図にもとづいて、安永5年(1776)三田尻(防府市)の別邸内に建築したものである。 重就の没後、その寵愛を受けた御茶堂竹田休和が9代藩主斉房から貰い受けて平安古の自分の屋敷内に移築し、その記念に「花月楼之記」を作った。明治21年(1888)品川弥二郎がこの建物を松本橋のたもとの自宅に保存していたものを昭和34年(1959)に現位置に移築した。 江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるよう設計された茶室が花月楼式の茶室である。
萩市教育委員会
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