前回は、備中高松城でしたが、今回は備中松山城です。
アクセス
岡山駅からだとJR伯備線で備中高梁駅下車。前回の備中高松駅からだと桃太郎線で総社駅で下車、JR伯備線に乗換えて備中高梁駅下車。
備中高梁駅からは、
- バスで駅→城見橋駐車場、シャトルバスで城見橋駐車場→ふいご峠、あとは歩き
- 乗合タクシー(要予約)で駅→ふいご峠、あとは歩き
といったルートになります。もちろん値段を気にしなければ普通のタクシーでふいご峠までという手段もあります。
自分は混雑が予想されたため、備中高松城見学後、備中高梁駅に移動しそのまま宿泊しました。で、翌日の朝早くから備中松山城見学へ出発しました。開場は9:00からですので、8:30にはホテルをチェックアウトし駅前のタクシーのりばで普通のタクシーを捕まえて、備中高梁駅を出発しました。 荷物が問題だったのですが、チェックアウトしても荷物は預かってくれました。
概要
備中松山城は、延応二年(一二四〇)に有漢矯(現上房郡有漢町)の地頭秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まる。元弘年中(一三三一〜三四)には、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康が大松山に入場。城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子市と替わり、永禄四年(一五六一)には安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。
元亀三年(一五七二)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶ。
関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀市は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長一〇年(一六〇六)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後は、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子永常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永一九年(一六四二)、水谷勝隆が入城する。
水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。元禄六年(一六九三)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまっている。その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(一七一一)に石川総慶が城主となり、延享元年(一七四四)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝晙・勝職・勝静・勝弼と七代続き廃藩置県を迎える。
案内板 備中松山城の沿革より抜粋
さぁ、ふいご峠から登山に出発です。ここから天守までは700m、約20分になります。
途中こんなお触書がいくつか立ってます。ただ単にゴミ捨てるなとか標識立てるんじゃなくって、こういう演出っていいですよね。
中太鼓の丸跡
中太鼓の丸跡が見えてきました。ふいご峠から登っていく過程で最初に見えてくる石垣です。
中太鼓の丸
かつて御根小屋と天守との伝達手段として使われた太鼓の丸。下太鼓の丸の二つの中継地点をもうけ、たいこの合図で連絡を取り合っていた
備中松山城 登場絵図 一般社団法人 高梁市観光協会
中間地点に来ました「しばし休まれよ」とのお触れ。自分はまだまだ大丈夫だったので、お触れを無視して先を急ぎました。城主様、すみません。。。
大手門跡
「よくぞまいられた」のお触書が。どうやら大手門跡に到着したようです。
大手門跡
大手門から先には多くの石垣が残っているが、一番目を弾くのが大手門右手にそびえる石垣群だ・天然の岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を立てる。山城の魅力である天然と人口のコラボレーションがよく現れている。
備中松山城 登場絵図 一般社団法人 高梁市観光協会
石垣が見えてきます。
木々と石垣、土塀の調和が素晴らしいですね。写真だと引いて撮ってますが、実際近くで生で見ると、石垣の高さが結構あり圧巻です。
断崖絶壁の上に石垣、土塀が建っているのがわかります。
大手門跡から三の丸に向かう途中にある土塀だが一部が現存のもので、残り半分は復元されたもの。壁の段差で区切っているそうなのだが、よく見なかった。。。
厩曲輪
三の丸から二の丸に行く途中にあります。
厩曲輪
荷馬を繋いでいた厩曲輪。現在で言えば駐車場にあたる場所
備中松山城 登場絵図 一般社団法人 高梁市観光協会
二の丸
黒門
黒門を超えるといよいよ本丸が目に飛び込んできました。
素晴らしいですね。この土塀と櫓と天守、まわりの木々との調和と構図が。
本丸
二の丸でいろいろ写真を撮りまくってから、本丸に入りました。本丸に入るところで料金を支払います。また100名城スタンプもこの料金所にありました。
天守
天守
最も高い所に天守の現存する山城(標高430m)。二層二階の典型的な山城だが、三層に見えるようにデザインされている。籠城戦を想定し、囲炉裏や装束の間が設けられており、二階には御社壇(神棚)があるのが特徴。天守は1683年、水谷勝宗によって大修復されたもの。
備中松山城 登場絵図 一般社団法人 高梁市観光協会
写真を見てるわかるように、天守自体も岩盤の上に建てられています。
天守からの眺めです。
本丸東御門
本丸の勝手口にあたり写真でわかるように引戸になっています。
二重櫓
本丸の裏手に二重櫓があります。
天守の北側、岩盤の上に造られた二重櫓。天然の岩盤の上に石垣を築き建てられており、山城の特徴がよく現れている。
備中松山城 登場絵図 一般社団法人 高梁市観光協会
大手門の石垣、土塀、天守すべてが最高でした。
城自体も最高でしたが、駅からふいご峠までの道中見えましたが、各要所、要所に誘導員を配置していてそれが計算され尽くされているというか、スタッフの方、タクシーの運転手さんも含めて、何か街全体でお客様を迎えようという気持ちが伝わってきました。
次回は城下町など、高梁周辺巡りについて記事を書こうと思います。