GWに、岡山県方面の史跡に行ってきました。
今回は、水攻めであまりにも有名な備中高松城です。秀吉、本能寺の変、中国大返しなど、このあたりのキーワードのストーリーでは必ずといっていいほど登場します。今は城址公園となっています。
アクセス
岡山駅からJR吉備線(桃太郎線)で、総社駅方面行きにのり、備中高松駅で下車、約20分。何本か備中高松行きも出てます。下車してからは、レンタサイクルでの移動をおすすめします。ウシダサイクルというレンタサイクル屋が駅から徒歩3分位の場所にあり荷物も預かってくれました。場所が人があまり通らない通りにあり、ちょっとわかりずらいので心配な方は住所からGoogleマップで検索するなどした方が良いと思います。
土地柄岡山といえば桃太郎だけど桃太郎線ってずいぶん思い切ったネーミングしたなと思いました。上の写真がその車両ですが、調べてみると、出口竜正さんという漫画家が書いた桃太郎伝説をイメージしたラッピング車両のようです。自分はあまり漫画を読まないのでどういう人かは存じ上げませんが。
高松城水攻め
天正10年(1582年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、3万の大群で毛利方の書状を次々と攻略するとともに備中高松城を攻めました。
秀吉は、城主清水宗治に降伏するように勧めましたが、宗治は応じませんでした。黒田官兵衛の策により、12日間で3千メートルに及ぶ堤を完成させ、梅雨の時期で増水した足守川の水を流し込み、水攻めによる兵糧攻めにしました。
信長が本能寺で打たれた事を聞いた秀吉はこの情報を隠し、毛利方の軍師安国寺恵瓊を招き、和平を結べば毛利からは領土はとらず、宗治の首だけで城兵の命は助けるという約束で宗治は自刃を承諾しました。
参考:高松城址公園資料館発行パンフレット
2年前の大河ドラマ軍師官兵衛では、この後の中国大返しに出発する直前のシーンで黒田官兵衛と小早川隆景のやりとりがありますが、「いけ!、官兵衛、いって天下をとれ!」とか隆景が叫んだりするシーンがあって、ちょっと笑ってしまいました。
備中高松駅
無人ではなかったです。駅員さんが一人いました。コインロッカーはありませんのでご注意を。
高松城址公園資料館
入場は無料です。中にはパンフなどが置いてあります。またボランティアの方がおられました。写真パネルとかが展示されていますが、水攻めのストーリーを映像化したビデオを流すとかした方が来た人がもっとイメージしやすいのになと思いました。
本丸跡
本丸跡は、下の写真の背後です。正面に広がるのは蓮池です。
案内板がこの位置と向きに立っていたので、正面と勘違いしてしましました。本丸跡には、宗治公の首塚や辞世の句の碑などがあります。
清水宗治公辞世の句
昭和57年5月の四百年祭の時、宗治公の精神を伝える碑が建てられました。当時の長野士郎岡山県知事の筆。
浮世をば 今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して
清水宗治公首塚
秀吉は宗治公の首を礼をつくして、陣を張っていた石井山の持宝院境内に手厚く葬りました。その後、明治42年にこの本丸跡に移されて現在に至ります。
二の丸跡
二の丸跡は写真の案内板の向こう側になります。広さ的には本丸と同程度だったらしく、発掘調査は行われておらず、詳細は不明で何も見るところはありません。
三の丸跡
三の丸は川舟を並べて舟橋をかけ城外と結ばれていたと伝えられています。
ごうやぶ遺跡
ちょっと外れたところにあります。宗治の自刃後、家臣たちが互いに刺し違えて殉死した場所と伝えられています。
清水宗治公自刃の跡
玄妙寺境内にある昭和38年に建立された供養塔。玄妙寺は、関が原合戦後、徳川の旗本として高松城に入った花房家(数年後には移動してしまいますが)の菩提寺。
清水宗治公胴塚
宗治は船の上で自刃するわけですが、首は秀吉に渡されますが胴は船にのせられたまま本丸に帰ってきました。この地に手厚く葬られたと伝えられています。
史跡舟橋
自然の沼を利用した八反堀という堀作って要害とし、この堀に川舟を集めてつなぎあわせ、橋をかけその上に板を並べて舟橋として、城外との連絡・物資の補給などを行い、作戦上必要に応じて舟橋を撤去し敵が侵入してこないようにしたようです。ただ、ここにどのように存在したのかがよくわかりませんでした。
感想ですが、城跡の周辺にはいろいろ史跡がありますので、もっと範囲を広げて観光地化するとかした方がもっと見るボリュームも増えるし楽しめるのではないかと感じました。
確かに「高松城水攻め」という岡山市の出してるカラーのパンフレットには、いくつかのスポットの場所と説明がありますが、周りの史跡も含めてモデルコースを1時間コース、2時間コース、自転車、車、徒歩コースなどいくつか紹介するとか、スポットまでのルート、どの位の時間かかるのかとかも情報として加えて欲しいですね。